無線電信の巧みと技

William G.Pierpont N0HFF

-改訂2版-

第19章 モールス通信の概略史 ‐その1

 

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モールスコード発達の背景がどうであったのかを知ることは非常に興味深いものです。それは送受信用に考案された電磁気構造の限界と密接な関係がありました。

記録によれば、紀元前の初期から日光や明かり、たいまつなどが何らかの信号を送る手段として使われていました。1700年代(1800年代まで)には数種類の腕木信号機が考案されヨーロッパなどの地域で広く実用されていました。

これらの信号機は、「信号腕」や「ブロックパターンを示すシャッター」の配列で構成するアルファベットコードを用いて、視界の効く距離の範囲内で用いられました。(夜間は光の配列を利用)このシステムは(時には望遠鏡を用いて利用されたが)天候や視界の制約がありました。また、少なくとも受信する側には二人のオペレーターを必要としました。一人は信号を確認する役目を持ち、もう一人はそれを書き留める役目を担ったのです。

距離が長い場合には中継局が設置されました。これらの信号システムは抽象的なメッセージを伝達し、また視認できる語句を1文字ずつ読みました。送られた文字を1文字ずつ読み取る方法を用いることにより、いくつかの電気化学システムが開発されました。

モールスのシステムは、電気を用いた最初のものではなかったのです。1800年代の初期には、いくつかの電気化学システム(天候などに左右される視界の問題を解決した)が発明され用いられました。そのうちのいくつかは非常にうまくできていましたが、扱いが難しい・スピードが遅い・整備が大変という傾向にありました。

モールスの工夫は、簡単な電気機械システムと直線的な符合を併せたことでした。モールスは新しく発見された電磁気原理と有効な電信システムの発達の鍵としての「直線的な符号」が結合することを予見していました。それは設備に求められる簡易性と頑丈さを備えていました。このシステムには二つの要素が要求されました。設備と適切な符号です。最初に思いついたのは、紙に信号を書き出すシステムを使って目で読めるようにすることでした。そこには、耳だけで読み取ろうとする考えは全くなかったのです。

 

オリジナルモールス符号
1832年に始まった彼の符号システムは、2つの部分から構成されていました:

ひとつは英単語に割り当てられた数字の辞書であり、もうひとつは0から9までの数字に当てられた符号でした。

送り手は単語を数字に変換し、受け手は数字を単語に変換したのです。モールスは、受け手のオペレーターは短点が5つまでの符号なら簡単に読めるだろうと考えていたのですが、短点の多い数字はすばやく正確に読み取るのは難しく、エラーが出やすく送信にも時間がかかりました。

このシステムでは、短点とスペースの配列は、さほど正確なものでなく、いい加減でエラーが出やすいものでした。 数字の符号にはあまり工夫がなされず、1から5までの数字はそれぞれ短点の数で表し、6から0の数字は1から5の短点にスペースをつけて表しました。

1→・ 2→・・ 3→・・・ 4→・・・・ 5→・・・・・

6→・スペース 7→・・スペース 8→・・・スペース

9→・・・・スペース 0→・・・・・スペース

このシステムでは短点の連続にはさほど正確さは必要なく、スペースの空け方が重要でした。なんと時間のかかるシステムであったことか。全体的なアイデアは良かったし、符号も簡単であったのですが、彼の符号システムは広くは普及しませんでした。(のちに数字と漢字を変換するという方法が中国で採用されましたが)

 

われわれが言う「モールス符号」は誰が発明したの?
ジョージ・オスリンの著書"The Story of Telecommunications"の第2章は、次のように始まります。「どんなアメリカ人でも、電信の発明者は誰かと尋ねられたら、モールスだと答えるだろう。しかし、短点・長点や電鍵などを発明したのは彼ではないのです」と。オスリン氏とは誰なのか? どこでこのような情報を手にしたのか?

彼はジャーナリストでした。彼はこの本を書くにあたり、新聞・雑誌・書籍・そして10万通以上の手紙や日記などを調べたのです。(この本が出版されたとき彼は93歳になっていました)13~28ページがモールス通信の起源に関する要約の部分でした。

疑問を解くために、私たちは次のこと知らなければならないのです。モールスは名声を得たいという気持ちが強いために、自分の偉大さを見せつけようとして、自分への批判から身を守ることに一生懸命だったのです。

モールスは自分の偉大さを誇示するために、他人の功績を認めようとせず、厳密な契約を結んで、さまざまな工夫や改善点など全てを自分自身の功績としたのです。彼の助手であったベイルは手紙の中で「モールスとの契約で、スミスやゲイルや私のどんな発明や工夫も、モールスのものとされたのです」と述べています。

しかしながら、モールスはベイルの功績を世間に知らせようとは決してしなかったのです。アルファベット・モールス符号発明の詳細について分からないのは、このような理由からなのです。もしもモールス自身の発明なら、その開発の経緯について詳細に述べているはずです。もうひとつの理由として、モールスとベイルは6~7年の間、離れて開発をしていたのです。モールスはニューヨーク、ベイルはニュージャージーのモーリスタウン。これは、飛行機で30マイルの距離でしたが、当時は行き来するのは大変難しかったのです。

1837年10月18日、モールスのベイルへ宛てた手紙の中で、ベイルの開発している機械を見たいと述べています。後にベイルはモールスを招き、そこでモールスは自分のやっかいな設備が、ベイルの実用的でシンプルな道具によって置き換えられることを知るのです。モールスは大変驚き、バクスター氏によると、彼はベイルの家で数週間寝込んでしまったということです。もしもベイルがモールスの助手として存在していなかったなら、モールスの電信設備は失敗していたのです。

ベイルは優れた技術者であっただけでなく、先を見通す目も持っていたのです。彼は、モールスの複雑な電信システムがあまり実用的でなく、もっと優れた方法があると考えていたのです。ヘンリーが電信とは何かを示し、モールスがやっかいなシステムを考え、ゲイルがさまざまなアイデアを出し、そしてベイルが成功となる符号と道具を作り上げたのです。

1888年10月18日、ベイルの未亡人がコーネル大学の学長に宛てた手紙の中で、モールスが死を迎える病床で、「今私がしたいこと、それはベイルの正しい評価だ」と人差し指でメッセージを残したことを述べています。

モールスの符号システムに関しては、彼は1837年のベイルに宛てた手紙では数字・辞書システムについて述べていて、長短点アルファベットに言及していないのです。彼は1843年まで数字・辞書システムを開発していたのです。

1838年2月21日、ベイルは父と兄に宛てた手紙の中で、大統領や閣僚の前で実演したことを伝えています。大統領が「The enemy nears . . .」という電文を指示し、それが数字に置き換えられて記録器に書かれたのです。

1886年4月14日のThe Engineering Newsは、モールス符号システムのアルファベットや接地回路や他の重要な特徴がモールスのものではなく、アルフレッド・ベイルのものであることを論じています。

ベイルのモールス符号発展背景にある考えを知ることはとても興味深いことです。 ベイルの考えを強く支配していたのは、簡潔さ・単純さ・そして正確さであったことに疑いの余地はありません。

受信するオペレーターには類似した符号を、躊躇や混乱することなく即座に区別できる正確さが要求されました。(この時点ではベイルは紙に打ち出された記録を目で読むことしか考えていなかったことを理解しておかなくてはならないのです。)また我々は、一方でスピードが要求されながらも、そのことは19世紀中ごろの時代においては、今日ほど重要な要求ではなかったことを理解しておかなくてはなりません。モールスの信号システムに始まり、ベイルがそれを発展させ、翻訳の必要のないアルファベットを用いた実用的なものにしたのです。

1837年の11月から12月にかけて、ベイルはモーリスタウンの印刷業者を訪ねて、アルファベットの中でどの文字がよく頻繁にタイプされるのかを調査しました。そして、頻度の高い文字に、長点・短点の少ない符号を割り当てたのです。

ベイルがモールスに協力をはじめてから3ヶ月後の、1838年の1月には、彼はアルファベットに当てはめた、最初の実用的モールス符号を作り出していました。それは、短点とスペースと同じように、長点を含むものでした。しかし、この時点では、まだ全部の文字に符号が割り当てられていたわけではなく、JとG、YとI、VとL、SとZは共通の符号として使われていました。これを耳で聞き分けるのは困難でしたが、紙に打ち出された文字を見て理解することは容易でした。このアルファベットコードは、送信速度を10WPMほどに改善してくれました。しかしながら、彼はこのことをモールスには話さなかったのです。現在ある資料によると、モールスはその6年後にも、まだ数字・辞書システムの開発をしていたのです。

過去における開発者が、「直線的な符号(linear code)」システムにおいて、複数の長さの構成要素(短点とか長点などのこと)を用いたかどうかは定かではありません。

(ここで言う「直線的」というのは、腕木信号や印字されたアルファベットイなどの複数を組み合わせるものと比較して、一直線に流れる単純な信号という考え方なのです)

ベイルは、この「直線的な符号」を構成する要素として、4つの要素を用いました。

<短点>、<長点>、<長い長点>、<符号内のスペース>

この4つの要素を用いることで、符号の内部では4つ、符号の最初と最後では3つ(スペース以外)の選択肢ができたのです。これらの選択肢が与えられたことによって、実用的なアルファベット符号が作られたのです。

(もちろん、符号と符号の間のスペースや、単語と単語の間のスペースも、さらに必要とされていました)

1843年には、ベイルは、1838年初期に作っていたアルファベット符号に大きな変革を加えました。変わらずに残されたのは、EHKNPQだけでした。

このときには、全ての文字にそれぞれの違う符合が割り当てられました。それまでの符号とかなり大きく変化したのですが、モールスも、他の人々もこのアルファベット符号については、ほとんど何も知らなかったのであり、とくに混乱は生じなかったであろうと思われます。

1838年に作られた符号の平均的な長さは8.329でしたが、1844年の測定では、7.978になっていました。約4%ほど短縮されたのです。(もしも、LとTの符号が入れ替わっていれば、平均値は7.950になっていたはずで、約4.5%の短縮になっていたのです)

1844年の符号は、最善ではなかったかも知れませんが、非常に実用的なものだったのです。彼の最終的な符号は、非常に多くの商用オペレーターによって使われ、20世紀中ごろまでアメリカやカナダを始めとする国々で標準的な電信符号として用いられたのです。

受信者による誤受信等を防ぐためには、符号を打つタイミングがとても重要なものでした。キーイングのちょっとした躊躇や、キーダウンが長すぎたりすることで、違う符合を送ってしまうことになるのです。この微妙なタイミングを軽視すると、次のような符号は混乱してしまうのです。

例えば「I」「O」と「EE」(当時の「I」は{・・}で「O」は{・ ・})や

「C」{・・ ・}、「R」{・ ・・}、「S」{・・・}と「IE」「EI」など。

長点では、「T」「L」「0(ゼロ)」など。

1844年の符号もその後継となる国際電信符号も完璧ではないのです。おそらく、完璧な符号はないでしょう。しかし、モールス符号はその実用性が証明され、電信器機の奨励と相まって広く普及していったのです。他言語におけるその効率は、使われる文字の頻度によって変化するものでしょう。


 

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