BMの今では昔の話 (11)

1974年私は友人とともに電波学院(塾)を作る計画をした。
私は電波通信技士1級,我が友は無線設備技士1級,私たちの二人で力を合わせれば必ず成功しそうだった。 それでソウル,鍾路(チョンノ)3街大通りビルディング3階に極東電波学院(塾)の看板を掲げのた。 1年後から運営がうまくいった。 私は昼間には会社に通って夕方にだけ仕事をするほかはないために私の友人が院長を,私が副院長を引き受けた。
この時クァンウン高等学校のペク・ナクキュン先生(後でHL1IKHのコールを受けて連盟op考査受講生のためにも多くの苦労をした)の無線工学講義はそれこそ人気最高であった。
この時期KARLはまともな事務室がなくて会員会社ハンモトンイを借りてあっちこっち転々として業務をしてきたが,75年長沙洞(チャンサドン)の会員事務室を事情で急に移転をする状態であって私たちの学院(塾)事務室で約1年間KARLの業務の面倒をみて鋳字洞(チュジャドン)に引っ越ししていった。
僅かの間だったが私が使っていた米国製トランシーバーSB100を事務室に設置して連盟事務室を訪ねてくる会員たちに運用することができるように配慮をした。
学院(塾)生らにもDX交信するのをDemonstrationして見せたりして,アマチュア無線に対する特講も何度もした。 その後のON AIRで副院長様の講義を聞いて,ハムに入門しましたとい方々に数人会った。 この時が2(文字)callが終わって3callが出てき始めた時と記憶している。
1982年にはHMがHLに変更された年だ......
つづく....

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