BMの今では昔の話 (16)

晋州(チンジュ)市にHL5WNチョン・ジファン(逝去)校長先生がおられたが7メガに出てくる電信愛好家たちがWNを智異山(チリサン)の山の神だと呼び、BMを大関嶺(テグァルリョン)山の神様がまた出てきたといった。 一日に数えきれない程出てきて全国の電信愛好家たちに交信してくれるようにと贈った愛称を思い出す。 この当時空間状態は昼夜を分けずに良かった。
1985年5月日本のハムの友人 JA9FDDから一通の手紙を受け取った。 私とは長い間電信交信をしてきた懇意な方で、ある田舎小学校の分教長をしていたがもうちょっとすると定年退職をするので退職前に何かひとつ業績を残そうと計画をたてていたところに突然私のことを思いだし手紙を送って,韓国と日本で育つ子供たちの夢を育てるために作品を交換,展示するイベントを計画してみようとのことであった。
私が前に交信をしながらこちら周辺環境を詳しく説明し、高い山頂の牧場地帯で都市とかけ離れた幾重にも重なった山中で小学生20人しかいない分校には私たちの牧場と隣三養(サムヤン)牧場職員の子供らが勉強していると説明をしたが自分たちの柳田村と似た点が多いのでと一度やってみようということであった。
こちらサムハン分教長に会ってこういう意を伝えたところ大歓迎であった。 田舎分校では夢にも見みることができないような大きい行事を行うことになったわけだ。 作品をつくり交換して,解説は全部私が翻訳をして,分教長どうしやり取りする手紙は全部翻訳をしてあげた。 貧しい田舎分校と予算一銭ない境遇なので韓日文化交流に必要な通信費は一切を私が負担した。
絵と童詩など30編ずつをやり取りすることにしてその年5月から準備して11月まで6ヶ月間準備して展示会を開催することができた。 ハムを通じて外国と文化交流までするようになったのだ。
山間僻地で疎外されたような子供たちに遠大な希望と広い世界を眺めることができる夢を見ることができる良い機会を作ってあげられた美しい思い出をとどめている。 1995年11月KARL紙に私のインタビュー記事にこれに対する内容と資料写真が掲載されている。
この頃米国から来た友人のQSL CARDにはこういう文が書かれてあった。
Love CW! it's music to my ears!
電信を愛すれば単純なポケベル音も時には甘美で,時には軽快な音楽として聞こえることになる。

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