無線電信の巧みと技

William G.Pierpont N0HFF

-改訂2版-

第25章 昔の学習コースとツール

 
 

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(年号は私が発見できたものを示しています)
モールスの最初の「送信機」は真っ直ぐな先端「ルーラー」に歯のようなものが乗っかっており、その上を電極を引っ張って使いました。このアイデアを元に(1844年)モールスが「送信プレート」を考え付いたことは疑い様がありません。「送信プレート」は符号を表す様に金属の板に絶縁物を貼りつけたものです。金属製の鉄筆で表面をなぞれば符号が出るようにしました(符号は脇に表示)。(そのようなプレートは1850年頃ドイツでも独自に作られていました。)

電気通信術の教師は学習の初期段階で品質の良い送信をたくさん聞いて練習する必要がある事を認識していました。送信プレートは初期の自己学習の道具として使われたようです。(そのような板はなんと1960年まで広告されていました)

 
オムニグラフ

1901年に登場したオムニグラフは明らかに元モールス「送信機」の持ちあがった「歯」から派生したものです。
それは手動クランクと交換可能な符号を刻んだ薄い金属ディスクをゼンマイまたは電気モーターで動かす機械的道具です。 
たくさんのディスクがスピンドルキャリアに乗せられて「モータ」で駆動されました。全体の様相は小さな"bumps"の付いたシリンダーのようでした。 フライボールのブレーキ調整で5から60wpmまでのスピードに対応できました。スピードは一度調整すれば一定に保てました。
 

各ディスクには5つの符号グループがあり、周りをギアの歯のようにカットしてあり、各グループは5つの文字と文字間を区別するスペースから構成されていました。  スプリング仕掛けの「フォロワ-」はディスクの端に乗って、電鍵の設定を開閉しました。 回転ディスクキャリアによって作動した調整可能な配列メカニズムは、フォロワーを、個々の符号発生の間に、ユーザー選ばれたポイントで上下させました。5から10枚かそれ以上のディスク用に色んなタイプが作られました。ディスクのトラッキングの変更と、配列メカニズムの調整で5つの文字グループを色んな順番で送信できました。しかしながら、グループ内の文字の順序を入れ替えることは出来ません。

これらのメカニズムはアメリカンモールスの音響器やブザーあるいはインターナショナルモールスの発信器と共に使用されました。 それらは、基礎学習と速度向上を目的としてアマチュアを含め広く使用されました。(宣伝文句として1ヶ月の集中学習で立派なオペレータになれると謳われていました)行政当局でもオムニグラフは電気通信術の免許試験用に長い間使用されました。少なくとも私が試験を受けた1930年にも使っていました。

ニューヨークのオムニグラフ製造株式会社の1922年の広告には、「電信(無線・有線)を自宅で通常の半分の時間で習得するただ聞くだけ-オムニグラフがお教えします。あなたはいかに短期間で早い符号スピードを達成できるかに驚くことでしょう。たとえあなたが既にオペレータでもオムニグラフは助けになります。それを使用することでより上達し、より正確になり、より自信がつきます。」1918年ニューヨークのElectro Importing社はディスク5枚付きマシンを16ドルで、15枚付きを23ドルで売り出しました。追加ディスクは1$でした。
1902年トーマス・エジソンの著書「電信の独学」がシカゴの
Frederick J. Drake社から発刊されました。その中で、「学習者を当惑させるのは文字の速度そのものではなく、文字間隔が短くつながった場合です」と述べてあります。(これは所謂今日ファ-ンズワース[Farnsworth]法と呼ばれているものと同じです)その本は小さな手動ハンドル式のテープ読み取り器と符号をパンチした紙テープがセットになっていました。テープは広い文字間隔から始まってだんだん文字間隔が狭くなるようになっていました。ゴールは実用的な25wpmでした。実際のスピードは勿論ハンドルをまわす速さ次第でした。
 

1917年マルコニー・ビクター社は6枚セットの両面フォノグラフレコードを発売しました。インターナショナルモールスの音声のみの学習教材としては初めてのものでした。それは6枚の78回転レコードに収められた12のレッスンからなり、マルコニー無線電信社が認めた「コードエキスパート」が送信を担当、ビクターフォノグラフ社がレコードを作成を担当しました。レッスン1と2で符号と一般的な記号。レッスン3,4で簡単な文章。レッスン5,6でマルコニー通信の伝聞とノイズを伴ったメッセージ。レッスン7,8ではノイズを伴った通信文 と間違いと訂正を含んだメッセージ。レッスン9で混信を伴った通信文。レッスン10から12は数字のグループ、10文字単語と10文字コードのグループ。 それは現実的で、典型的で、実際に即した受信時の問題を考慮した野心的なプログラムでした。プレイ時間は短いものでした。
 

1921年ニューヨークのワイヤレスプレスは「どこでも符号を練習しよう」という広告を出しています。広告は、「新しい方法-符号学習の為の音感法。 電信で成功するためには文字を音で覚えなければなりません。各文字は顕著な調子、リズムを持っており数時間の学習で容易に記憶が可能です。添付のチャートには電信アルファベットの各文字のリズムのポイントを示してあります。それは学習者の頭の中に絵を浮かばせるのではなく音を音楽のごとく記憶するものです。1日1時間を各文字の特徴的なリズムの記憶に割けば数週間でメッセージを送受信できるようになります。初心者はチャートや本などによって短点と長点を絵で示した教材を絶対に使わないようにすべきです。一旦絵で各文字を記憶してしまったら音で送受信することが難しくなります。目を通して耳に教え様としてはならないのです。」(この学習コースのコピーを見るのはとても興味深いものです)
 

国家ラジオ協会(National Radio Institute. Washington DC.)のラジオニュース1921年から:
すばらしいNatrometerで通常の半分の時間で符号を習得できます・メッセージをメカニカルな方法ではなく、人のメッセージとして3から30語毎分に可変して送信できます・ノイズの効果を付加することも出来ます・初心者はAダイヤルからすばやくアルファベットを習得できます。 絵はオムニグラフに似たメカニズムを示していましたが、サイズは半分程度、10枚の交換可能なディスクを使っていました。価格は表示されていません。
 

ニューヨークのDodge Radio Shortcut (後に "Shortkut")の最初の広告はC. K.  Dodge 氏により"BKMA YRLSBUG"と呼ばれ、1921年のラジオニュースに出ています。それによれば、「コンチネンタルコードをほとんど瞬間的に記憶。44州の200人の初心者がレポートしています、20分で、1時間で、一晩で,・・覚えられたと。」それは5/8コラムの大きな広告でした。その後は1インチくらいの広告で、たまにちょっと大きいときもありました。初期費用は小さな冊子代3ドルでした。この広告はその後何年も掲載されました。(これは21章で紹介しているお勧めできない"Eat Another Raw Lemon"方式でした)
                   

メモ コード、(H. C.  Fairchild, Newark NJ.)ラジオニュース、1922年8月号の広告:
少年と大人のみなさん。あなたを本当のオペレータにします。私がお勧めするシステムとチャートであなたは符号を30分で覚えることが出来ます完全なシステムが1ドル」ブザーと電鍵練習セットも5ドルで発売中。
 

1922年10月のラジオニュースの広告です:「ラジオコードを習得する最速の方法」としてアメリカンコード社(ニューヨーク市) がジャック・ビン(Jack Binns)の録音をフォノグラフで発売しました。ジャックは当時勇敢で有能なオペレーションで1909年に攻撃された共和国の人名を救ったことで有名な英雄的オペレータでした。「2枚組のフォノグラフ とテキストのセットで2ドルでした」このコースは符号を一晩で教えるといううたい文句でした。かなりすごい!
 
テレプレクス社(ニューヨーク市)、QST1927年4月号の広告:
符号学習の簡単な方法、学習時間が半分に。有名なテレプレックス、自宅での独学にどうぞ。一番早くて、簡単で、経済的にアメリカンモールスやコンチネンタルを習得する方法熟練オペレーターの送信を忠実に再現します。」翌月の広告から:「ついに登場!有名なテレプレックスねじを回すだけ5から80語毎分。」その翌月:「コードをこの簡単な方法、テレプレックスで習得しましょう。完璧なコース」コード解説マニュアルと補助、アドバイスのサポート付き。さいしょはバネ式のパンチテープを使った機械でした。その後電気モーター駆動式のモデルになりました。1942年(電気化学反応を利用して)ユーザー自身の送信または準備した送信内容を記録できるペーパーテープが発売されました。 1956年パンチテープ式に一旦戻り、1959年にオムニグラフに似た機械になりました。価格は決して広告に表示されませんでした。テレプレックス社はその後、インク紙タイプの機械式電鍵を発表、それは何年も市場にありました。それは導電インク(外見上、銀の化合物)を使った横振れ式ペンを使用し、科学的処理をしたペーパーテープを使ったものでした。ユーザーはキーあるいは受信機から自分独自の記録ができました。再生はバネで引っ張られた紙と導電インクがコンタクトして電気が流れることで行なわれました。これはモールスのオリジナルである「レコーダー」とほぼ同じ物でした。McElroy社もこれと同タイプのレコーディングシステムを製造しました。これらのシステムは平均的ハムのボケットブックをたは比較にならない高価なものでした。
 

キャンドラーシステム(シカゴ)は1928年9月号のQSTで初めて広告をだし(たぶんその前から他誌には広告をしているでしょうが)、最後は1959年2月号でした。広告では、高速で「科学的」なコースを強調していました。時々大きな広告を出しましたがだいたい1インチの小さなものでした。価格は広告されませんでした。第30章参照
 
インストラクトグラフ社(シカゴ)のQST1934年1月号の広告:「(コードティーチャ-)科学的、簡単で早い符号学習法。マシン、テープと完全教材販売・レンタル」これはテレプレックスのパンチテープ式のマシンと似たもので、スピードは3から40wpmでした。最後の広告は1970年のARRLハンドブックでした。

パンチペーパーテープを使用した練習マシンは他にもありました。テープはリールに巻かれゼンマイ仕掛けのモーターや電気モーターで速度を調整しながら引っ張るものです。テープの鑽孔はスプリングで押さえられた電流遮断器を開閉しました。プロ用のマシンはアマチュアに使われるまでに長い間使用されました。テレプレックスとインストラクトグラフのものは最も初期のもので良く知られたものです。その後発売された類似品メーカにはAutomatic Telegraph Keyer Corp., Gardiner & Co.等があります。独自のテープをパンチするものもいくつか発売されていました。長年コードスピードチャンピョンであったTed McElroy高品質の機器をプロ用と軍用に第二次大戦中に作り始め、対戦後もしばらく作りつづけました。

これらのユニットのいくつかは購入以外にレンタルも有りました。 どちらにしても、結構な費用がかかったためアマチュアが入手できるようなものではありませんでした。加えて、練習教材の種類と量もしばしば非常に限られたものでした。

McElroy"free code course"は1945年に提案され50年代に再び符号マシーンとセットで再登場しました。その宣伝文句は「平均的な人は最初の日に何時間も練習すると考えられますが、これを使うと最初の日にワードと文章が20wpmで受信できるようになります。Tedはアルファベットの半分を使って一時間全くアテンションなしで20wpmの速度の練習テープを準備しました。一分間で20語全部をコピーするようにはなりませんが、各文字があなたの耳を20wpmの速さでヒットし、スペースは次第に短くなってゆきます
 

 奇妙で小さなユニットが1970年に発売されました。それは「コチューター"Cotutor."」と呼ばれるものです。それは単なる笛とアルファベットと数字のディスクがセットになったものでした。ディスクには6つの符号がパンチされており手でディスクを回しながらマウスピースを吹くと符号が音になる仕掛けでした。
 

レコーダーとコンピューター
本格的なバラエティーの増加はワイヤーレコーダーとテープレコーダーの普及によって到来しました。フォノグラフのように「マシン」は符号学習以外の使用目的で既に保有されている時代になったからです。これはコストダウンになりました。たくさんの符号学習テープが発売されましたし、自分で録音することが出来ましたし、何回でも聞くことができました。たくさんの優れたコースが出来ました。

いくつかの電子キーボードとキーヤ-は幅広い変化に富んだプログラムされた練習教材を提供しました。それらの優位点の一つは、常に完璧な符号を発生できることです――初期の学習には非常に重要なことです。

しかし1980年代初頭から普及したパソコンはもっとも幅広いレンジの符号学習を可能にし能力向上に最適でした。様々な種類の無料ソフトや有償ソフトができました。必要に応じて独自のプログラムが可能なソフトも少なくありませんでした。即時式あるいは時差式で学習者とパソコンがインタラクティブに応答できるプログラムもたくさんできました。これは、学習に特に有用です。さらに上級学習者向けにパソコンで模擬QSOをするものもできました。これらの可能性は本当にすごいものがあります。(第16章参照)

最後に、受信符号を解読するコンピュータプログラムがあります。そこは機械ですからタイミングが正確でなければ解読は出来ません。学習者はこれを使って自分の送信が正確かどうか見ることが出来ます。しかしながら、耳で受信する代わりとすることはお勧めできません。
 

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